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ももふみブログ

上と真ん中は1歳7ヶ月差、真ん中と下は1歳9ヶ月差の、年子3人の育児中です。主に雑記ですが、育児日記を中心に思っていることイラストなど、好きなように描いたり、綴っていきます☆

子供たちに語り継ぐ戦争体験

今回は、重たい話になります。

 

 今年で戦後72年

はだしのゲンという、有名な原爆の漫画があります。

しかし、はだしのゲンが、残酷だからとか、怖いという理由で、図書室から撤去された学校がありました。

 

はだしのゲンに限らず、広島原爆資料館から、被爆人形が撤去されたりなど、どんどん

戦争や原爆の 描写が甘くなっていっているような気がします。

 

残酷だからこそ、怖いからこそ、原爆の悲惨さを伝えるためにも置いておくべきではないかと思います。

 

72年がたち、語り部をする人たちも減ってきています。

風化させないためにも、子供たちへ伝えていかなければ、ならないと思います。

 

私の父方の祖母は、15歳のとき広島で被爆しました。

 

私は、被爆三世です。

 

広島市電(当時はチンチン電車と呼ばれていた)を運転する女学生でした。

 

※2015年に、「一番電車が走った」という、阿部寛黒島結菜主演で、ドラマが放送されましたが、そのなかのモデルになった内の一人です。

 

原作は、こちら

 

現在、祖母は健在です。

 

祖母の戦時中の話を聞いたり、広島市内の学校に行っていたということもあり、戦争、原爆というものや、平和教育は身近にありました。

 

祖母の戦時中の体験

祖母は、冒頭でも説明したように、チンチン電車の車掌をしていました。

 

原爆投下された日も、通常通り常務予定だったそうですが、体調が悪く休んでいました。

 

気がついたら、外に投げ出されており、気がつくと血だらけになっていました。

背中が生暖かく、近くを通った人に、

 

「背中をみて下さい」

 

そう聞くと、

 

「背中にガラスが沢山刺さってる!早く手当てをしてもらいんさい」

 

と、言われました。

 

思わず、

「お母さん、助けてー!」

と叫びました。

 

身体中に火傷を負った祖母。

 

喉が乾いても、大火傷をしているから、水は飲ませてはくれませんでした。

 

ふと、回りを見ると

 

みず・・みず・・

 

と、手の皮がはげて、おばけのように手を垂らしてる人が沢山います。

 

大火傷を負ったのに、水を飲んだ人はどんどん亡くなっていきました。

 

 

祖母は、命の恩人である、いとこに出会います。

 

祖母が、もう辛さのあまりに生きることを諦めようとしたとき、何度も何度も叱咤激励をされ、二人で避難所まで歩いていきました。

 

そこで祖母は、田舎にいる両親に迎えに来てもらい、広島市内を後にしたのです。

 

被爆後の差別

戦争が終わって、祖母が都会に出たときに差別に合います。

 

銭湯で、背中の怪我のことを聞かれます。

 

広島で、原爆にあって怪我をした

 

というと、

 

「あんた、あのピカドンに合ったの?ピカドンがうつるー」

 

と、言われ、銭湯にいた人が、一斉に離れていきました。

 

戦争が終わっても、差別という戦争は終わらない・・

 

 

 

 

あの日、祖母の体調が良く普段通り出勤していたら、今の私はいなかったと思います。

 

戦後72年となり、どんどん戦争体験を持った人がいなくなっていきます。

 

戦争で犠牲になった多くの人たちの上に、今の私たちがいます。

 

その人たちの死を無駄にしないためにも、二度と戦争はあってはならないし、風化してはいけないと思います。

 

子供たちには、しっかりと祖母の体験や戦争の悲惨さを伝えていこうと思います。 

 

未来の子供たちが、どこにいても平和な日々をおくれますように。